まだ、迷走している。
いくつかの自分の方向性を示すことができたが、まだ自分が何をすればいいかがわかっていない。ただ、こういう時期が人生にあってもいいと思う。もう人生も後半なのだから振り返ることも大切であるし、それなりにサバイバルしてきたわけであるから、それは誇ってもいい。
生きる意味を問うことはとても大切なことである。
コロナによって多くの人たちが人生の変更を余儀なくされただろう。僕のその1人である。それはスピリチュアル的には風の時代の始まりである。この新しい時代にどう生きるかは各自の人生に委ねているのだ。
自分が生まれてきた意味を知りたがって今まで頑張ってきた。もちろん今でもその意味がわかることはない。ただ、今の状況が自分が思っているよりも悪くない状況だということはわかる。この状況から本来の自分を取り戻すことがとても大切なのだ。
新しい出会い、新しいビジネスはこれからの人生の出発点として刻まれていく。この出発点では未来を見ることができない。あまりにも不安である。
捨てるべきことがわかったことが大きな収穫だろう。
今までの人生で捨てるべきことは以下の通りである。
- 論理性の探究
- 物欲
- 建前論で生きる
これらは生まれてきた時から自分が持っている特性である。それを捨てることは今までだったら考えることができなかった。しかし、これからは来世まではこの考え方を捨てて、以下のように生きていきたい
- 思うがままに生きる
- 人のために、人と共に生きる
- リラックスする
今頃になって自分の人生を新たにすることは意味がないかもしれない。しかし、これからの人生は来世のための準備であると考えている。来世にもっともっと有意義に生きれるためには一つの実験をする必要がある。それが人を中心とした生き方である。
私はもともと論理性が好きだった。多分魂レベルで論理性を追求してきたのだと思う。学者だった前世もあるのだろう。しかし、今世はそれができなかった。望んでいたのだが、うまくいかなかった。それはきっと生きる意味が違っていたからだと解釈している。つまり、今回、生を受けてきた目的は論理性の追求ではなく、人間性の獲得、人を中心とした生き方をするべきだったのだ。
思い出せば、大学一年の頃、僕はとても悩んでいた。何かが違うと思って生きていた。しかし、それはわからなかった。まさかその時に人を中心とした生き方を選ぶことはあり得なかったのだ。
でも、こうして歳をとって、人を理解することこそが大切だと思うことに至ったのだ。遅すぎる悟りであるが、それでも構わない。自分にないものを獲得することこそ、今世の修行であるのだ。